生徒の主体性やアクティブラーニングという言葉にも踊らされて、勘違いしてはいけない。

うわべだけの主体性やアクティブラーニングの追求であってはいけない。

デジタル機器や授業の装飾にこだわるあまり、実質を追求できない授業であってはいけない。

 

自主性や主体性は無から生まれない。意図的な教育はその前提に必要である。

また、学習の基礎基本や規範意識をしっかり身に付けずに、アクティブラーニングの深化はありえないと考えている。

 

 「何のためのグループワーク、ペアワークなのか?」

 「何のためのプレゼンなのか?」

 「何のためのディスカッションなのか?」

 「何のためのデジタルや装飾なのか?」

 

活動をやることが目的化していて、なおかつ生徒がそれなりに踊っているけれど、何を学んだかが最終的に見い出せないパフォーマンス・・・これは端から見ていれば「生徒の活動が生き生き見え、教師も嬉しい」わけだが・・・だとしたら、「アクティブラーニングで学力がつくのか?!」という議論と直結してしまうわけである。深い振り返りは期待できなくなる。

 

かといって、講義式では、深みと厚みのない授業だと生徒は納得しない。

講義式は、生徒の静かなアクティブラーニングが必要とされる。目で見て、耳で聞き、頭で考えながら追求していく主体性である。教師には、深い知識を噛み砕いて還元する情報提供力が要求される。指導技術や板書技術も当然必要である。

 

講義式とアクティブラーニングが出力と入力を自由自在に操れるようになるためには、教師は、専門的技量があり、深い専門性があり、そして集団指導力があり、個別対応力もあり、最終的には現在以上の力を蓄えなければ通用しない。今の時代、それほどの力を付けていくことが大切なのである。アクティブラーニングが機能している教室は、その裏側に、生徒の学習規律や基本的生活習慣が成立していて、生徒の相当の家庭学習やこなすべき課題が遂行されている場合が多い。主体性に任せて、教師の指導や生徒の基本的な生活習慣や学びの姿勢を棚上げにしてはいけない。

 

大学入試に「意見を求めよ」との課題解決問題が出題された時、アクティブラーニングの成果を求めるならば、アクティブラーニングで話し合う内容こそ真剣で深みのあるものでないといけないのだろう。現実の社会問題に即してあらゆる角度から自分の意見を深めていくには、それに裂く十分な時間が必要である。そこには導入の授業での厚みと深さが必要である。

もちろん、意見や課題解決型の問題だけではない。知識問題も当然必要である。知識や技術技能の伝授における教師の専門性は不可欠である。

 

 「教える」から「学ぶ」へ。何事も「深い」知識と教える「技術」があり、その上で、学びのアプローチを図る必要があるのではないかと考えている。静と動のバランスが大切。

 

学びの規律が施されていて、学びに狙いがあり、受動と能動がバランスよく機能し、教科書から飛び出した深い学びがあり、そこから意見や策を出し、自分の意見に自信を持ち、それらを他者と共有し、自国や世界のために還元できることが、アクティブラーニングの醍醐味だと考えている。

 

 

言葉に踊らされない、しかも時代の流れや要請はしっかりと認識した重厚な授業を創り上げたい。

 

     このホームページ

   RikyuのYouTubeチャンネル

   QRコード ご利用ください。

カウンター カウンター

今日の雑感

外務省 海外安全ホームページ